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インドネシア語()は、インドネシア共和国の国語。この地域の交易語(リングワ・フランカ)であったマレー語のリアウ州の一方言を、国家の共通語としたもの。マレーシア語と非常に似ており、互いに通じ合うばかりでなく、現在では正書法もマレーシア語(のラテン文字表記)と共通である。また、タガログ語(フィリピン語)とも類似点が数多く見られる。形態論上では日本語と同じく膠着語に分類される。オーストロネシア語族マレー・ポリネシア語派に属する。'')は、インドネシア共和国の国語。この地域の交易語(リングワ・フランカ)であったマレー語のリアウ州の一方言を、国家の共通語としたもの。マレーシア語と非常に似ており、互いに通じ合うばかりでなく、現在では正書法もマレーシア語(のラテン文字表記)と共通である。また、タガログ語(フィリピン語)とも類似点が数多く見られる。形態論上では日本語と同じく膠着語に分類される。オーストロネシア語族マレー・ポリネシア語派に属する。 == 由来 == もともとインドネシア語は、独立前のオランダ領東インド時代、さらにそれをさかのぼる交易の時代にマラッカ海峡の東西およびその周辺海域で用いられていた、海上交易のための共通語だった海峡マレー語であった。 そうした由来をもつインドネシア語が民族の言葉として認められていく過程で画期となったのは、宗主国オランダからの独立を求める民族主義運動のころ、1928年10月27日・28日に開催された第二回インドネシア青年会議における次のような決議であった。 :; 青年の誓い :: 我々インドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します :: 我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します :: 我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します 民族主義運動の初期には、オランダ領東インドで最大人口を誇ったジャワ人の言語であるジャワ語を国語にするという運動もあったが、この「青年の誓い」ではそのようなジャワ優先主義は退けられた。以後、インドネシア語での言論・出版活動、民族主義運動などを通じて、本来ならスマトラ島のマラッカ海峡地域の言語であるマレー語(の一種)をベースとしたインドネシア語が民族の言葉としての地位を確立していくことになった〔永積昭『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会、1980年、254頁以下を参照。〕。 独立後のインドネシアでは「インドネシアは多民族が共存する。どの民族が支配してもいけない。どの民族の言語(地方語)も国語になってはならない。ある民族の言語が国語になれば、その民族が国を支配するからである。」〔岩崎真哉「類別詞言語と非類別詞言語に関する一考察: 英語とインドネシア語を例に」、『国際研究論叢』28巻3号、2014年、2頁以下を参照。〕という政治思想の下、インドネシア語が国語として整備された。国語教育が初等教育過程に導入され、官庁用語もインドネシア語に統一された。また出版や放送メディアにおけるインドネシア語の使用も、この言語の普及に大きな役割を果たした。このような来歴をふりかえると、もともとインドネシア語を母語とする人口は少なかったが、民族主義運動期から独立後の過程を経て、インドネシア語を母語とする人口が徐々に増えてきたことがうかがえる。 しかし、インドネシア語という公用語に対する地方語の地位が衰えたわけではない。たとえば、ジャワの学校教育の現場では、授業はインドネシア語で行なわれるが、生徒はジャワ語でおしゃべりするという、「公の言葉」であるインドネシア語と「私の言葉」である地方語との使い分けは、学校教育に限らず、インドネシア人の生活のあらゆる場面でみられる光景である〔白石隆『新版インドネシア』、NTT出版、1996年、第1章を参照。〕。現在でも、ジャワ人の日常ではジャワ語が、またスンダ人の日常ではスンダ語がそれぞれ用いられているなど、公用語と数百の地域語が並存している状況である。ただしジャカルタなどの大都市ではインドネシア語を母語とする人が確実に増えつつある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「インドネシア語」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Indonesian language 」があります。 スポンサード リンク
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